生活とはこれ苦行なり

セブンイレブンのATMに行ったら、画面の中で魔女がお金を下ろしていた。なんて夢も希望もないんだ。魔女なんてほうきに乗ってどこにでも行ける。電車代だってかからないのに。実際、画面の中の魔女もほうきに乗っていたし。それともあれは、魔女の仮装をしたふつうの人間だったのだろうか。そんなハロウィン仕様の格好でキメておいて、お金を下ろすのをわすれてしまったのだろうか。いずれにせよ、世知辛い世の中だ。
かくいう私も、ATMに向かった動機はもちろんカネだ。
そう、給料日である。
給料日だからお金を下ろす。正直言って、そんな当たり前なルーティンに自分も加わるなんてまっぴらごめんなのだが、支払いやらなんやらがあるのでそうも言っていられない。
私はお金を下ろした。と同時に残高を確認した。
「は?」
声出た。いや出てた。後ろに人も並んでたとおもうけど、勝手に声出てた。
うそだろ?いやいやそんな。そんなばかな。
驚くほどカネが貯まっていない。
いやいや。
うそでしょ?
こんな毎月馬車馬のように働いているのに?
私が勝手に現世に生を受けたと思い込んでいただけで、実はここって地獄だった?
信じられない。意味がわからない。
なんなら今月はガチャに課金もしてないし、あんまりお金使ってないのではムフフ、などとほくそ笑んでいた時間を返してほしい。
冷静な私はまず、不正利用を疑った。
スマホを取り出し、即座に明細を確認する。
なんということでしょう、すべての明細に身に覚えがある。
いったいどの口がお金使ってないとか言っていたのか。
いやでも待てよ。
これはすべて必要経費なのだ。生活に必要なお金。生きるために人間ってこれくらいお金使うよね?うん、使うよ。だって現に私が使っているのだし。
よし、状況を整理しよう。
落ち着いて考えれば、原因が見えてくるはず。
そう、給料が低いのだ。
それしかない。
いやなんなら最初からわかってたけど現実から目をそらしていたというか、向き合いたくなさすぎて目を閉じていたけど、それしかない。
人間ってこんな金額で暮らしていけるもの?おかしくない?
必要最低限の栄養摂取して毎日生きながらえていれば、生活してるって言えるの?仕事終わりの一杯も自分へのご褒美も、自分を奮い立たせるための戦闘服も戦いのあとの戦士の休息もなしに、人間って戦い続けられるものなの?
推しのCDも推しの円盤も推しの映画も推しのイベントも推しの舞台も推しのグッズも、そのために生きているのに、それが生きる糧なのに、それを買うためのカネがないなんて、生きている意味なくない?
とりあえず1回日本崩壊してほしい。
今までもどうやって生きていけばいいかわからなかったけど、明日からもまたどうやって生きればいいかわからないけど、とりあえず生きるしかないので生きるしかないのだとおもうと絶望だけど、今日もまた寝て明日起きてまた生きるしかない。
この世界のそういうおんなじようなきもちの人に、お互い生きるしかないね、と心のなかで声をかけながら、寝ます。

もう二度と服なんて着ない

服を着るのが面倒だ。

物理的に「服を着る」ことに付随してくる「買い物」「洗濯」(ものによっては)「アイロンがけ」も面倒だし、その過程で生じる「着回し」「コーディネート」などという面倒極まりない行為を経て、あげく「センス」がどうだの「体型」がどうだのと言われる/言われないようにする、この一連のサイクルを毎日繰り返すことに心底嫌気が差している。

 

おしゃれなショップに足を踏み入れ、店員さんの目を盗んでこそこそと店内を物色。
「よかったら合わせてみてくださいねー」
と鏡を指されるも、あいまいな笑顔でやりすごす。
何気ないふうを装いつつ値札を確認し、いざレジへ。

 

そんな決死の作戦で手に入れた戦利品を持ち帰り、部屋で開封したら、次は過去の自分のセンスと闘うことになる。クローゼットや抽斗をひっくり返してもそれに似合う服などあるはずもなく、自分のファッションセンスと記憶力のなさを呪うばかりだ。

 

服がきらいなわけではない。
かわいい服を買えばテンションが上がるし、おろしたての服を着て出かける日は気分がいい。

 

しかしそんなかわいい服も、必ず運命の裁きを受けるときがくるのだ。
そう、洗濯だ。
洗濯をするごとに、服のHPは減っていく。
洗濯機は、服にとっては毒の沼だ。
かわいかったあの服も、お気に入りゆえに生地が毛羽立ち、バッグがあたる部分は毛玉ができやすくなり、色もあせて元の輝きを失ってしまう。
洗濯は敵だ。
洗濯がなければ、私もこれほどまでに服を着ることを疎んじたりしなかっただろう。
洗濯の厄介モノっぷりはこれだけに収まらず、次から次へと襲い掛かってくる。
洗濯物を洗濯機に入れたとする。
まあそれだってブツの量に応じて水量や洗剤の量を決めなくてはならないが、ひとまずその試練を乗り越え、スイッチオン。洗濯スタート。
しかしそれは洗濯という作業においては初手にほかならない。
洗濯機の次に待ち受けるもの。
干して、取り込んで、たたむ。
あり得ない。
面倒すぎる。
面倒が過ぎる。


いや、最悪の場合、最後の「たたむ」は省略してもいい。
取り込んだ服をそのまま着よう。
しかしそれ以外はどうだ。
もはや手の施しようがない。
どれだけ手間をかけさせれば気が済むのだ。

 

何よりも納得出来ないのは、こんなに手間暇かけているのに、それが服にとってはダメージでしかないということ。
生まれたての輝きを失わせる、エイジング作業でしかないのだ。

 

ああ、洗濯が憎い。
洗濯しなくていいのなら、服を着ることももう一度考え直してもいい。
しかし不潔な服は着たくないし、臭いや汚れはもってのほかだ。

 

仕方ない。
もうこれは、ひとつの選択肢しか残っていない。

 

服を着ない。

 

そうすれば、洗濯もする必要がない。
これが答えだ。

 

もう服なんて着ない。
「もう恋なんてしない」という曲は、もう恋なんてしないという心情をそのまま出そうとしたらレコード会社だかなんだかにネガティブすぎると止められて「なんて言わないよ絶対」という歌詞をつけたという話を聞いたことがあるような気がするが―今調べてみても出てこないので記憶違いかもしれない―恋は再びすることがあっても服など着ないでいいだろう。

歌のかけあいはセックスと同義だ

グレイテスト・ショーマン」を観た。
作品自体の感想は本題とは関係ないので割愛するが、本題に入るためにざっくりあらすじだけ紹介しておく。

 

職を失ったバーナム(主人公)は、銀行に「怖いもの見たさって言うでしょう?人はぞっとするようなものを見たがるんですよ」と言って金を借り、博物館をオープンするも、鳴かず飛ばず。どうしたものかと考え「人はぞっとするようなものを見たがるんですよ」と言った舌の根も乾かぬうちに、マイノリティの人々をリクルートしショーを始めることを思いつく。
批評家には叩かれながらもショーは盛況。しかしもっと上流階級の人にも賞賛されたい!と欲を出したバーナムは、名うての劇作家フィリップを取り込むことに成功。
興行を見にやってきたフィリップは、ひとりの団員に一目惚れ。このふたりの恋はこれはこれでいろいろあるのだが、さらに本文には関係ないので割愛する。
フィリップの粋なはからいで女王に謁見したバーナムは、その席で出会ったこちらも飛ぶ鳥を落とす勢いのオペラ歌手(女性)に目をつけ、自分にアメリカ公演を仕切らせてくれと申し出る。
「おれは観客をだまして楽しませるが、一度は本物を見せたい」と言ってオペラ歌手を口説き落としたバーナムは、公演での彼女の歌声(オペラか…?)に感動。
その打ち上げパーティにお祝いに駆けつけた団員たちを会場から冷たく締め出し、これまでは結婚を快く思っていなかった妻の両親が少し認めてくれたような発言をすると、自虐をまじえた暴言(愛する妻の父親に向かってよくもそんなことが言える)でそれに応えた。
締め出された団員たちは「This is me!」と公衆の場に躍り出るが、バーナムは見てもいないしそれで心をいれかえるようなこともない(歌だけがかっこいい)。
オペラ歌手に魅了されたバーナムは、サーカスそっちのけで彼女とふたり、ヨーロッパツアーに漕ぎ出す(この前に娘に「フェイクと本物は違うんだよ(自分たちは成り上がりのフェイクで本物の上流階級ではない)」と言われてもいるので、この流れだと完全に自分のリクルートしたサーカス団員は偽物で、やっぱり本物は最高だ!と言っているのと同じ)。
ところが、ふたりの突然の痴情のもつれによりツアーは中止(オペラ歌手の扱いがひどい)。サーカスは燃え、動物は逃げ出し、妻は愛想を尽かし出ていき、バーナムはしょんぼり。そこにサーカスの団員たちが都合よくやってきて、「あなたは私たちに家族をくれた」と言い励まし(きっかけはバーナムかもしれないが、その後かなりひどいことをされているので果たしてそんなきもちになるのかどうか疑問)、心をいれかえたバーナムは「これからはちゃんとするよ!」と歌いながら妻のもとへ駆け出す(「これからは」「From now on」と何度も言っているが、これからの態度がどうであれ今までしてきたことは消えないし、団員への仕打ちは確実に彼らの心に傷として残り続けるだろう)。「これからはちゃんとするよ!」と告げられた妻は大海原よりも広い心で夫を許し、ともに家路につくのだった。

 

この作品、音楽が本当に素晴らしい。
私はキャストも監督も知らぬまま、予告をひとめ見てそこで流れる音楽を聴いた瞬間、この映画は必ず観なくてはと心に決めた。冒頭の「おーおーおおおー」を聴いただけで、この映画を観に来たのは間違いではなかったと確信できる。そんな名曲ぞろいだ。
また、曲と映像のシンクロが素晴らしい。フィリップとアン(フィリップが一目惚れする団員)のデュエットなどは、サーカスという舞台装置をうまく利用し、ふたりの揺れ動く心情を映像でも表現していて永遠に見ていたかった。

 

そんな珠玉の曲の中のひとつに、フィリップを引き込む交渉中にバーナムとフィリップが歌う曲がある。ふたりの心理戦やマウントの取り合い、歌声のかけあいが美しい一曲である。
私は思った。これはセックスと同義だ。
「○○と同義だ」と言うとき思い浮かぶのは、私の場合は泉田くんの「二位は最下位と同義です」だが、このバーでのシーンを見ているときの私はまさに泉田くんの心理そのものと言ってもいいだろう。
歌のかけあいはセックスと同義だ。
映画館の大きなスクリーンでいいのだろうか、見ているこっちがどぎまぎしてしまう。思わず目をそらしそうになったほどだ。
まったくいやらしくもなければ、なんならバーテンさんも含めて映像との調和も最高の場面だ。

そうか、セックスはこんな日常の何気ない場面にあたかも当然のように紛れ込んでいるものなのか。ふたり、あるいはそれ以上、あるいはそれ以外の何かと、とにかく調和のとれた状態、またはそれが崩れた瞬間、人は、いや私は、セックスを感じるのだろう。
まったく素晴らしいシーンだった。

 

すぐにサウンドトラックを買った。
このサウンドトラックはセックスと同義だ。