もう二度と服なんて着ない

服を着るのが面倒だ。

物理的に「服を着る」ことに付随してくる「買い物」「洗濯」(ものによっては)「アイロンがけ」も面倒だし、その過程で生じる「着回し」「コーディネート」などという面倒極まりない行為を経て、あげく「センス」がどうだの「体型」がどうだのと言われる/言われないようにする、この一連のサイクルを毎日繰り返すことに心底嫌気が差している。

 

おしゃれなショップに足を踏み入れ、店員さんの目を盗んでこそこそと店内を物色。
「よかったら合わせてみてくださいねー」
と鏡を指されるも、あいまいな笑顔でやりすごす。
何気ないふうを装いつつ値札を確認し、いざレジへ。

 

そんな決死の作戦で手に入れた戦利品を持ち帰り、部屋で開封したら、次は過去の自分のセンスと闘うことになる。クローゼットや抽斗をひっくり返してもそれに似合う服などあるはずもなく、自分のファッションセンスと記憶力のなさを呪うばかりだ。

 

服がきらいなわけではない。
かわいい服を買えばテンションが上がるし、おろしたての服を着て出かける日は気分がいい。

 

しかしそんなかわいい服も、必ず運命の裁きを受けるときがくるのだ。
そう、洗濯だ。
洗濯をするごとに、服のHPは減っていく。
洗濯機は、服にとっては毒の沼だ。
かわいかったあの服も、お気に入りゆえに生地が毛羽立ち、バッグがあたる部分は毛玉ができやすくなり、色もあせて元の輝きを失ってしまう。
洗濯は敵だ。
洗濯がなければ、私もこれほどまでに服を着ることを疎んじたりしなかっただろう。
洗濯の厄介モノっぷりはこれだけに収まらず、次から次へと襲い掛かってくる。
洗濯物を洗濯機に入れたとする。
まあそれだってブツの量に応じて水量や洗剤の量を決めなくてはならないが、ひとまずその試練を乗り越え、スイッチオン。洗濯スタート。
しかしそれは洗濯という作業においては初手にほかならない。
洗濯機の次に待ち受けるもの。
干して、取り込んで、たたむ。
あり得ない。
面倒すぎる。
面倒が過ぎる。


いや、最悪の場合、最後の「たたむ」は省略してもいい。
取り込んだ服をそのまま着よう。
しかしそれ以外はどうだ。
もはや手の施しようがない。
どれだけ手間をかけさせれば気が済むのだ。

 

何よりも納得出来ないのは、こんなに手間暇かけているのに、それが服にとってはダメージでしかないということ。
生まれたての輝きを失わせる、エイジング作業でしかないのだ。

 

ああ、洗濯が憎い。
洗濯しなくていいのなら、服を着ることももう一度考え直してもいい。
しかし不潔な服は着たくないし、臭いや汚れはもってのほかだ。

 

仕方ない。
もうこれは、ひとつの選択肢しか残っていない。

 

服を着ない。

 

そうすれば、洗濯もする必要がない。
これが答えだ。

 

もう服なんて着ない。
「もう恋なんてしない」という曲は、もう恋なんてしないという心情をそのまま出そうとしたらレコード会社だかなんだかにネガティブすぎると止められて「なんて言わないよ絶対」という歌詞をつけたという話を聞いたことがあるような気がするが―今調べてみても出てこないので記憶違いかもしれない―恋は再びすることがあっても服など着ないでいいだろう。